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夏の風物詩の甲子園での全国高校野球大会は、100回目の記念大会を迎え、甲子園での高校野球史に残る往年の名選手によるレジェンド始球式が記念行事として行われています。今回は8月18日に始球式が予定されている中西太氏について、怪童と呼ばれるに至った甲子園での活躍と、その後のプロ野球での伝説・成績と現在について記載したいと思います。
中西太選手の甲子園での活躍と怪童の由来
中西太氏は香川県高松第一高校で、1949年の春と夏、そして1951年の夏の大会と3度の甲子園出場を果たしていますが、ベスト4に2回進出するも、2回とも優勝校に惜敗し、優勝や準優勝の経験はありません。
地方予選から中西選手は本塁打を量産し、長距離バッターとして注目されていましたが、怪童と言うニックネームは、1951年の夏の大会に3年生で出場した時に付けられたものです。プロ入団後もこの怪童中西の愛称で親しまれ続けました。
怪童・中西太コーナー
@高松ミライエ(松島町) pic.twitter.com/SfaMQhTupS— えふしれ (@botankirei) 2018年8月17日
その大会では1回戦と2回戦で2試合連続のランニングホームランを放ちました。そして準々決勝戦の芦屋高校戦では高松一高は危なげなく勝利しましたが、この試合で中西選手の放ったセカンドライナーを捕球した選手が尻もちをつくほど打球が速かったとエピソードが残っています。しかし続く準決勝では平安高校に敗れ、中西太選手の高校野球は終わりを告げました。
この大会ではランニングホームラン2本のみと少し寂しい結果でしたが、野球中継をしていた解説者の飛騨穂洲さんが、高校生離れした打球の速さから、怪童と言うニックネームを付けたのが、中西氏の怪童の由来となったものです。
中西太の伝説とプロ野球の成績
中西太氏はプロでやっていく自信がなかったと語っていましたが、西鉄入団の1年目から活躍をしています。プロ初本塁打は何とランニングホームランで、1年目の成績としてはホームラン12本、打率は0.281で新人王を獲得しました。
そして2年目の1953年には史上最年少で打率0.314、36本塁打、36盗塁と言うトリプル3を達成する大活躍をし、その年から4年連続本塁打王を獲得し、1958年まで毎年の様に三冠王に近い成績を残しました。
西鉄のチームとしては、流線形打線と呼ばれる強力打線で1954年には球団初のリーグ優勝を果たし、稲生和久投手の入団した1956年からは読売巨人を相手に3年連続日本一を達成すると言う黄金時代を築き上げました。
そんな中で中西太選手はライナー性で早い打球のホームランで、各球場でその飛距離に関する伝説を残しています。例えば1953年の平和台野球場で大映の林投手から放った打球はライナーでバックスクリーンを超え場外の福岡城跡まで届く推定飛距離は160m以上でプロ野球最長距離と言う伝説も残しているのです。
1962年からは西鉄の選手兼任監督に就任しましたが、監督としては満足な成績を残す事が出来ませんでした。
中西太氏の現在
西鉄を去った後、解説者を経験し、ヤクルト、日ハム、阪神等多くの球団で監督やコーチを勤められました。監督としての評価はあまり芳しくありませんが、コーチとしては多くの名選手を生み高く評価されています。
中西太氏は1933年生まれで、今年はすでに85歳になられています。現在は第1線からは退いておられますが、まだまだお元気で、甲子園のレジェンド始球式で怪童の姿を見る事が出来るのが楽しみです。
あと2日後に中西太さんが始球式に出る
待ち遠しいぜ!! pic.twitter.com/StroKmw8WN— 中西太・松永浩美fast.ペリーサターン (@fast38725311) 2018年8月16日
まとめ
中西太氏は、高校野球で怪童の名を付けられるほどのパワーヒッターで、西鉄ライオンズに入団後にも素晴らしい成績を残しました。
現役時代には怪童と呼ばれ、現役引退後は太さんの愛称でも親しまれ、プロ野球史に大きな足跡を残されたレジェンドと言えます。