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坂本佳一の現在は?岡谷鋼機で何をしている。甲子園のヒーローの今

坂本佳一の現在

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バンビのニックネームの1生投手が1977年(昭和52年)の夏の甲子園大会をを沸かせました。

バンビ大会とも言われた夏の甲子園大会の主人公は坂本佳一さん、現在56歳です。

その、坂本佳一さんが夏の甲子園大会100回記念のレジェンド始球式に登場します。

甲子園のレジェンド坂本さんが、甲子園大会に出場したのは会の大会、1年生のときだけだったのです。
プロ野球に進むこともありませんでした。

しかし、甲子園を熱狂させた印象は鮮烈な人々の記憶に残っています。

その後の坂本佳一さんの人生は?
そして坂本佳一さんは現在、何をしているのでしょうか?

回大会とその後の坂本佳一さんの人生と今、現在についてまとめてみました。







目次

坂本 佳一プロフィール

画像)https://www.asahi.com/articles/photo/AS20180606000800.html

坂本佳一
出身地 愛知県
生年月日 1961年11月9日(56歳)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手

野球経歴
東邦高等学校
法政大学
日本鋼管

坂本佳一さんが野球をはじめたキッカケは父親の影響だそうです。
お父さんは名古屋市営バスの運転手で阪神ファン、父が阪神ファンだったため、
無理やり練習させられたのが野球を始めたキッカケだそうです。

【昭和52年】検証・東洋大姫路 対 東邦 【高校野球・決勝】

1977年夏の甲子園大会バンビ坂本佳一が熱狂の渦に

画像)https://vk.sportsbull.jp/koshien/articles/photo/AS20150730004868.html

坂本佳一さんは、父の影響で野球をはじめ
中学校の野球部では打者としての経験しかありませんでした。

しかし、東邦高校に進学し監督に肩を見込まれて投手に転向し一年生からエースとして活躍。

しかも、投手転校からわずか4ヶ月の1年生で夏の甲子園大会決勝までの全て5試合を完投。

決勝戦では元阪急に指名された東洋大姫路の松本正志投手と延長10回を投げあい、サヨナラ本塁打で負けるという悲劇の主人公となりました。

愛知県代表として夏の大会では華奢な体からひたむきに投げ続ける1年生投手の姿が好感を呼び
マスコミから、クロヅルくん(首が長く色が黒い)のニックネームで親しまれ
大会の後半にはバンビの愛称で呼ばれ数多くの甲子園ファンを熱狂の渦に巻き込んだ坂本圭一さん。

しかし、その後、坂本圭一さんが甲子園のマウンドに戻って来ることはありませんでした。

悲劇の1年生投手 坂本圭一

画像)https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9C%AD%E4%B8%80&ei=UTF-8&fr=mozff#mode%3Ddetail%26index%3D25%26st%3D750

一年生エースとして背番号1をつけて77年甲子園大会に出場した坂本佳一さん。

身長176cm体重62キロ、スリムで華奢な1年生坂本投手にはたくさんのファンが応援そして勝ち上がる度に熱狂しました。

甲子園のヒーローはたくさんいます。

例えば三沢の太田幸司投手68年の夏69年春夏と3大会連続出場。

鹿児島実業の定岡正二投手は二年生の時にも出場し、甲子園出場2回

東海大相模原辰徳選手は一年生から3年連続出場選抜にも一度出場しています。

しかし坂本投手は甲子園のマウンドにたったのは一年生の時だけ、鮮烈な記憶を残したバンビ坂本佳一は再び甲子園に戻ってくることはなかったのです。

1977年夏の甲子園大会後の坂本圭一さんは、、、

一年生で5試合を完投、甲子園で準優勝投手となった坂本さん。

二年生以降は周囲の大きな期待にもかかわらず甲子園出場の機会に恵まれませんでした。

その坂本一さんの高校生活とはどういったものだったのでしょうか?

一躍甲子園のアイドルとなった坂本投手は周囲の過度な期待に苦しんでいくこととなります。

登校中や下校中には、唐突に見ず知らずの人から理不尽な喧嘩を売られることなどもあったそうです。

なかなか結果が出せない、、、

予選で敗退

大きな期待を受けたその後は自分のとの戦いだったといいます。

野球をやめようと思っても、野球部を辞められる環境に自分は置かれていなかったと言っています。

大きなプレッシャーを感じて野球をやっていたんでしょう。

2年生の時は愛知県大会の決勝で敗北

そして3年会の3年生のときは3回戦で名古屋電気校(愛工大名電)と激突、
この試合は0対1からの8回二死からマウンドに上がった坂本投手は
わずか3球しか投げることがなく試合は0対1で破れ坂本さんの甲子園のマウンドに再び登る
夢は砕け散ってしまいました。






坂本佳一 岡谷鋼機に勤務

坂本圭一さんは、高校卒業後は法政大学に進み、
野球部に入部。

しかし、目立った活動はできず4年間でリーグ戦への登板はありませんでした。

その後、日本鋼管に入社し、野球部に入部

しかし、野球はわずか2年間で現役生活に終わりを告げ日本鋼管で仕事に付きます。

そして2002年6月から岡谷鋼機にサラリーマンとして在籍しています。

坂本 佳一さんの今、現在

名古屋が本社の岡谷鋼機に勤務している坂本さんですが、77年の甲子園大会の絆があります。

それは、「バンビ会」

この「バンビ会」を立ち上げたのは奇しくも
77年の東洋大姫路決勝戦の最終10回にサヨナラ本塁打を打った東洋大姫路の安井選手でした。

東洋大姫路の安井選手はSSK事業推進本部副部長務めていて、名古屋勤務時代もあり名古屋に本社を置く岡谷鋼機で
働く坂本さんと連絡を取り合って「バンビ会」というものを結成していたそうです。

そして77年の甲子園決勝で投げ合った松本投手(元阪急)も、あの年はバンビの年だった。
バンビ坂本投手が主役!として当時戦った敵味方が集まったそうです。

素晴らしい話ですね!

部下に死ぬ思いをしたことがあるのか?


1970年代の甲子園のアイドル 定岡正二 東邦 バンビ坂本

坂本投手は現在、岡谷鋼機本店の室長として部下を持って仕事をされています。

部下からは坂本さんて「名刺なくてもいいですよね(有名で)」と言われることもあるそうですが、
本人は少しばかりこの言葉に気分を害していると言っています。

坂本さんが部下に言いたいことはやはり

「死ぬ思いをしたことがあるのか?」

死ぬ思いで野球の練習をしてきたからこそ、その地位を築けたんだ。
それぐらい仕事やってみろと思う気持を伝えたいそうなんです。

一年生の夏で頂上まで登った坂本さんを待ち受けていたのは
試練の連続でした。

やはりどんな立場になっても期待に応えたいという思い死にものぐるいで練習に食らいついていた高校時代。

辛かった時間もこらえてきた、理不尽な喧嘩を売られてもこらえてきた。

そのことが今の坂本さんを形づくっているのだといいます。

西愛知大会決勝の始球式にも参加したバンビ坂本さん

まとめ 坂本佳一 現在

今でも坂本さんは野球に関わりを持って生活しています。

野球を通じて青少年健全育成を目指すため2003年にはNPO法人「フィールド・オブ・ドリームス」を立ち上げ
社会人野球チームを招いて中学生対象の野球教室も開いてきました。

やはり野球とは離れられないのです。

坂本投手は高校一年生のときにいきなり準優勝甲子園を過喚起の渦に巻き込みましたしかし、
その後は実績を残す、やって当たり前と思われても、思うような結果が出ない。

いろいろと悩んできました自分の努力不足分などもあるけど、いろんなことを受け入れながらやってきた高校生活

どちらかといえば楽しい思い出よりも苦しい思い出ばかりだったと言っています。

ただ、その経験を積むことができたのは東邦高校での3年間があったからです。

その時代こそが今の坂本さんを形づくっているものだと言えるのではないでしょうか。






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