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沢田研二の前妻伊藤エミとは?馴れ初め離婚理由と今の奥さん|昭和のビッグカップル

沢田研二の前妻伊藤エミ

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昭和の日本の音楽界を鮮烈に彩った一人、ジュリーこと沢田研二さん。彼の人生には、華やかな舞台だけでなく、2度の結婚という人間ドラマがあります。

その結婚相手として、まず最初に挙げられるのが伊藤エミさん。

伊藤エミって誰?

伊藤エミさんといっても
ピントこない方が多いと思いますが
彼女も当時の大スターでした。

沢田研二さんと伊藤エミさんとの出会い、そして別れの経緯はどのようなものだったのでしょうか?

我々の想像を超える彼らの馴れ初めと離婚理由について深掘りします。

また、現在の沢田さんの伴侶である田中裕子さん。女優として知られる彼女との結婚は、1989年11月12日の出雲大社での挙式で世間を驚かせました。この再婚に至るまでのエピソードにも迫ります。

一緒に、このレジェンドのラブストーリーを探求していきましょう。

目次

ジュリーの初婚相手、伊藤エミさんとはどんな女性?

名を馳せた1960年代のグループサウンズ全盛時代から、その熱狂を継続させ1970年代のソロ活動まで、連続ヒットと日本レコード大賞受賞を果たすなど、常に音楽界のトップに君臨していた沢田研二さん。現在の奥さん、田中裕子さんとの結婚に至るまでの道のりは、それだけに注目を集めました。

その道程において、まず挙げられるのが初婚相手である伊藤エミさん。年配の方でも名前だけではピンと来ないかもしれませんし、若い世代の方々にとっては全く知らない名前かもしれません。

実は、伊藤エミさんは、当時の大人気デュオ、ザ・ピーナツの一員で、双子の姉でした。彼女は沢田さんより7歳年上で、二人の結婚は1975年、沢田さんが27歳の時に実現しました。

当時の大スター同士の結婚は、さながら「夢のコラボレーション」とでも言うべき出来事で、社会現象となるほどの大騒ぎになりました。結婚直後には、比叡山でのフリーコンサートに夫婦揃って登場し、それはそれは大きな話題を呼びました。

では、彼女との結婚生活はどのようなものだったのでしょうか?次のセクションで詳しく見ていきましょう。

一世を風靡したザ・ピーナッツの伊藤エミさんの人物像

伊藤エミさん(本名:澤田日出代、旧姓:伊藤)は、1941年4月1日生まれ、2012年6月15日に永眠された日本の歌手で、ザ・ピーナッツのメンバーとして知られています。伊藤エミさんには、同じくザ・ピーナッツの一員である双子の妹、伊藤ユミさんがいます。

エミさんは愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)で三女として生まれ、すぐに名古屋市へ転居しました。10歳の頃からは、妹のユミさんと共にNHK名古屋放送局の唱歌隊に所属。その後、名古屋市のレストランで伊藤シスターズとして活動し、渡辺プロダクションの社長、渡邊晋氏にスカウトされます。ここからがザ・ピーナッツとしての活動のスタートで、1959年2月11日にデビューを果たしました。エミさんはハーモニーパートを担当し、ユミさんはメロディーパートを歌っていました。

そして1975年4月、芸能界から引退。引退直後の同年6月4日、同じく渡辺プロダクション所属の人気歌手、沢田研二さんと結婚します。さらに同年7月20日には比叡山延暦寺で結婚式を挙げ、その直後の沢田さんの「比叡山フリーコンサート」では夫婦揃ってステージに上がり、結婚報告を行いました。この時がエミさんが一般観衆の前に姿を見せた最後となりました。

本名 澤田 日出代(さわだ ひでよ)
別名義 エミちゃん、日出ちゃん
生年月日 1941年4月1日
没年月日 2012年6月15日(71歳没)
出生地 日本・愛知県知多郡常滑町(現・常滑市)
職業 歌手(但し映画出演歴あり)
活動期間 1959年2月11日 – 1975年4月5日
配偶者 沢田研二(1975年 – 1987年)

これがザ・ピーナッツとして、そして沢田研二さんの初婚相手としての伊藤エミさんのプロフィールです。では、次に彼らの結婚生活と離婚の経緯について見ていきましょう。

沢田研二と伊藤エミの馴れ初めと恋愛の始まり

その頃、ザ・ピーナツは一世を風靡し、絶大な人気を誇っていました。彼女たちは、若き日のジュリー、すなわち沢田研二と比べても、その存在は明らかに一段上のものでした。

1970年から1971年にかけて、ザ・ピーナッツは「東京の女」を含む4枚のレコードをリリースしました。この作品群に共通するのは、その作曲を手掛けたのが、当時20歳だったジュリーであるという点です。

ジュリーとザ・ピーナッツは同じ渡辺プロダクションに所属していました。この時期から、20歳のジュリーと27歳の伊藤エミさんの間には恋が芽生え始めていたようです。

超人気者だった二人の交際は、驚くことに約6年間もの間、一切表面化することはありませんでした。

そして、1975年2月18日、ザ・ピーナッツが突然の引退を発表します。彼女たちの引退理由は、「人々に惜しまれるうちに辞めたかった」とのことでした。さよなら公演が終了した後、同年5月18日に伊藤エミさんと沢田研二の婚約が発表され、約半月後の6月4日には二人は正式に結婚しました。

比叡山フリーコンサート:二人の結婚を祝う実質的な披露宴

人気絶頂だった二人、沢田研二と伊藤エミは、当初は帝国ホテルで披露宴を予定していました。しかし、このような豪華な披露宴はしばしば芸能人同士の一種の格付け競争となりがちです。

そんな中、プロデューサーの木村英輝さんが提案しました。比叡山で式を挙げ、ファンへの感謝の意を込めたコンサートを開催するというアイデアでした。

そして、沢田研二さんと伊藤エミさんは比叡山延暦寺で挙式を上げ直後には、沢田研二さんの主催する比叡山フリーコンサートに新婚夫婦そろって登場。2万人のファンの前で、結婚を報告しました。

多くのファンに祝福され、この出来事は沢田研二、通称ジュリーの人気をさらに高めました。一方、伊藤エミさんはこのコンサートを最後に公の場に姿を見せることはありませんでした。

伊東エミさんは1979年に長男、澤田一人さんを出産しますが、夫婦の幸せな時間はそれほど長く続きませんでした。1987年1月、二人は離婚します。

次の章では、彼らの離婚理由と、伊藤エミさんが離婚後も最後まで沢田姓を名乗り続けた理由について説明します。

沢田研二と伊藤エミの離婚理由:沢田研二の不倫

沢田研二さんと伊藤エミさんは結婚から12年後の1987年に離婚しました。彼らは一男をもうけたものの、その後の生活は決して順風満帆ではありませんでした。

二人の離婚のきっかけとなったのは、沢田研二さんが映画「男はつらいよ 花も嵐も寅次郎」で共演した女優、田中裕子さんとの熱愛関係でした。この映画が放映されたのは1982年、つまり、伊藤エミさんとの離婚前のことでした。沢田研二さんはこの不倫により人気が低迷しました。

当時の田中裕子さんはNHK連続テレビ小説「おしん」に主演し、人気女優でした。このような状況下でのスーパースター、沢田研二さんの不倫は、世間で大きな話題となりました。

沢田研二さんは、子供とも言われる総額18億円の財産を捨て、田中裕子さんとの再婚を決断しました。そして、伊藤エミさんとの離婚から2年後の1989年に、田中裕子さんと再婚しました。

その一方で、伊藤エミさんは子供の事を考え、離婚後も沢田姓を名乗り続けました。また、沢田研二さんが譲渡したとされる資産は、慰謝料として彼女に譲渡されました。

沢田研二と伊藤エミの離婚理由:沢田研二の不倫

沢田研二さんと伊藤エミさんは結婚後、1男をもうけましたが、結婚から12年後の1987年に離婚しました。

離婚のきっかけとなったのは、沢田研二さんが映画「男はつらいよ花も嵐も寅次郎」で共演した女優、田中裕子さんとの熱愛関係です。この映画は1982年に放映され、これが沢田研二さんと伊藤エミさんの離婚前でした。

当時の田中裕子さんはNHK連続テレビ小説「おしん」に主演し、人気女優でした。そのため、スーパースターであった沢田研二さんの不倫は世間で大きな話題となり、その報道により彼の人気は低迷しました。

沢田研二さんは子供と財産を捨て、田中裕子さんとの再婚を決断しました。そして、離婚から2年後の1989年に、田中裕子さんと再婚となります。

伊藤エミの沢田研二を愛するからこその離婚

伊藤エミさんは沢田研二さんとの離婚後も「沢田」の姓を名乗り続けました。沢田研二さんの自宅などを含め、総額18億円とも言われる資産は慰謝料として伊藤エミさんに譲渡されました。一部では、伊藤エミさんが離婚後も「沢田」姓を名乗ったのは残された子供のためとされています。

しかしながら、沢田研二さんと親しい芸能関係者からの情報によれば、伊藤エミさんが沢田研二さんを愛していたからこそ、離婚届に判を押したとの説があります。

理屈で考えれば、不倫関係にあった沢田研二さんと田中裕子さんがお互いを愛し合っていたとはいえ、本妻である伊藤エミさんが身を引くのは理解しがたい行動かもしれません。しかし、これは伊藤エミさんの沢田研二さんへの深い愛情から来るものであったと考えられます。

伊藤エミさんが離婚後も澤田姓を名乗った理由

キーワード:離婚後も澤田姓を名乗った理由

伊藤エミさんは、愛する沢田研二さんの望む形になることを選びました。彼女が払った感情的な代償は、受け取った18億円の慰謝料とは比べ物にならないほど大きいかもしれません。

結婚後、伊藤エミさんの本籍は沢田研二さんの実家である京都府に移りました(ただし、居住は東京都のまま)。1979年3月に一男を授かりましたが、1987年1月に離婚し、本籍も戻しました。この際の慰謝料は当時の芸能人カップルとしては最高額の18億1,800万円でした。

離婚後も伊藤エミさんは一生沢田研二さんの本名である澤田姓を名乗り続けました。これは子供のための理由もありますが彼女が沢田研二さんに対して持っていた深い愛情を示すもだと思われます。

離婚後の伊藤エミさん

伊藤エミさんは離婚後、実妹のユミさんとともに公の場にほとんど姿を現すことはありませんでした。しかしながら、同じく渡辺プロの後輩である中尾ミエさんとは引退後も亡くなるまで交流が続いていたと言われています。

2005年12月から2006年1月、そして2007年8月には、渡辺プロダクション主催の記念イベントで、彼女が最後のライブ(さよなら公演)で使用したマイクが展示されました。そのマイクには伊藤日出代(エミさんの本名)のネームプレートが付けられていました。

残念ながら、伊藤エミさんは2012年6月15日にがんのために亡くなりました。彼女の死去はその月の27日に明らかにされ、彼女は71歳でした。彼女の遺された音楽と影響は、今も多くの人々に愛され続けています。

再婚への道のりが困難だった沢田研二さん

伊藤エミさんとの離婚が成立した後、沢田研二さんは田中裕子さんとの再婚へと進むかと思われました。しかしながら、その直後に、芸能界で彼の親のような存在であった渡辺晋社長が亡くなったため、喪に服す必要があり、すぐに再婚はできませんでした。

さらに、沢田研二さんが伊藤エミさんと結婚している間に田中裕子さんとの不倫が発覚したことで、ファンからの離れが急速に進行。ファンクラブが潰れるほどの大きな影響がありました。

しかしながら、田中裕子さんは、沢田研二さんと伊藤エミさんが結婚している時期に、彼と必ず結婚すると宣言していました。この強い愛の結果、二人は結婚に至ることがでたのだと思います。

沢田研二8年後:女優・田中裕子との再婚

1989年11月12日、7歳年下の女優・田中裕子との再婚式を出雲大社で挙げた沢田研二さん。井上堯之夫妻が媒酌人を務め、出会いから8年後のこの日、約3000人ものファンが大社を訪れ、「ジュリー!」と彼を祝福しましたが、ここまでの道のりとして大きな犠牲を払った結婚であったのは間違いないようです。

田中裕子との再婚が、沢田研二にもたらした“大きな変化

yahooニューズ
「二度と女の人を悲しませたくない」と…田中裕子との再婚が、沢田研二にもたらした“大きな変化

「あの時、僕が一番思ったのは、二度と女の人を悲しませたくないということと、今度は自分が悲しい思いをすることになるかもしれないということ。現実問題として相手は7つも若いし、因果はめぐって今度は自分が捨てられるかもしれないで、ということも覚悟した」”

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